再構築 置き換え

 年金問題など、つぎから次へと、注目する項目が出てくる。誰かの意思で、情報を操作されていると、感じるのは、私だけではないはず。年金問題は、ワタシも当事者のようだが、少し時間を置いて、保険事務所へいくことにする。技術は進歩しても、人間の考えることはそう変らないようで、ローマも江戸も同じような物かも知れない。
 不安をあおり、感心を向けさせるというやりかたと、感心のある人を、集めるというやり方は、根本的に違う。この違いは大きく、自分がどの方法で、今、感心を持っているかを認識することは、大事なことだと思う。
 給料が安く、食もままならないと感じている人は、どちらになるのだろうか、不安をあおられた結果ではなく、不安を感じられなかったので、なるがまま、そういう状況になってしまったと考えるべきかもしれない。北の住民はどうなのだろう。気付けば、不安が生活の全てだったということなのだろうか。程度の違いはあっても、日本にも、そんな人々はたくさんいる。で、再構築ということになるわけだが、実際に再構築をはじめると、とたんに、いままでの、環境が、そうはさせまいとチカラを誇示しだす。そんなとき、ちょっと言葉に工夫をくわえると、良いのかもしれない。年金は、自分のために掛けているのではないとか、そんな置き換えだが、本質的な置き換えは、ヒントになるカモ知れない。記録はのこっていなくても、たとえば、70才以降は、年金掛けていても掛けていなくても、生活は保障しますよ。という解決方法もあるのだろう。