少数派かも

まとまりがない音から意味を感じることができるようになるということは、知らず知らずのうちに、自分の存在を感じるということになるということかも知れない。今はバラバラになりつつあるのだけど、なぜか、16小節で組み立てられた曲が多く、12小節はブルースとかJazzとかいう範疇に叩き込まれているような気がする。まわりくどく説明する必要は無いのだけど、自分の方向性が分からなくなったときには、こういう思考パターンは時間の節約になるかもしれないと思っている。
 好きな曲を聴いていると、なぜか自然に12小節の曲ばかりになってしまうのだ。そうこうしていると、自然とJazzを好きだという人の集まりにふれてしまう。これが、また、個性の塊みたいな人が多いのだ。なぜか、そうなってしまうのである。
 これは少数派の集まりで、変わり者という認識も最近感じ始めていた。『アメニティ』という言葉が、あまり浸透しなかったのは、存在を確認する方法として、日本人の生活スタイルとは、どこかちがう感覚からだろうと考えていたのだが、なぜかJazzという分類と同じような感覚を感じる。
 好きなものは好きで何も問題は無いのだが、生活スタイルで少数派ということは、のめりこめばのめりこむほど、時間が蓄積されればされるほど、新興宗教みたいな理論武装が必要になってくるようだ。


 音の場合、聞くのは簡単に自分の感覚で選択できる。これが演奏とか、発信する側に立とうとすると、とたんに自分の感覚は消し飛んでしまうものだ。不協和音とか、魂の叫びとかいう言葉は決して、自分の好きな言葉ではないのだが、この個性の強い、知り合いは好んで刺激的な言葉として使っているようだ。