12Bars 16Bars

 不思議なことに、何も目的が無いようでも、身の回りのものを、いじっていると、意味を持ち始める。実は、これが結構タノシイのだ。『音』を出す楽器なんかが分かりやすい。住んでいるところに、自由に触れる楽器がアルということは、大切なことのように感じてしまう。
 宗教的なシステムのあり方が影響しているのかもしれないが、日本では、『音』に関して自由な環境にあるとは言いがたいのではないか。そんな感じさえ持ってしまう。車の中では、聞く環境は整っている。カラオケでは、メインヴォーカルの練習はできる。ただ、素養が無いのに、こんないい環境があってもそれこそ、『モッタイナイ』といわざる終えない。そう素養を育てる環境が無いのである。心に残る『音』は、やはり生活の中で造られていくのであり、与えられるものではない。日曜は、安息日で、みんなに協会に行こう。奥さんや子供にも、サービスがあるよ。知らないうちに子供たちは、教会音楽など、素養を育てている。片や、年に一回は、お墓、掃除に行きましょう。親戚が最近、亡くなっていれば、7回忌までぐらい集会を開いてもいいようですよ。その違いなのかなとも思ってしまう。宗教の自由は保障されているのだけれど、特に拘束力の無いことなので、身近な人が亡くなるまで、自分がどの宗教なのか、分からない人が増えているし、かといって、キリスト教ではないことは浸透している。そこで、問題なのが、知らないうちに教育・経験することが意外と、大事という現実なのである。『音』に関してはとくにそのことが、重要なことのように思う。

 そんな大上段なことはおいといて、12小節というのは、やはり区切りとして日本人には受け入れないのだろうか。16小節という区切りが受け入れられてるとも思えないのだが・・・