ダイアログ

 ダイアログとは、対話とのこと。今の文学が翻訳から派生したと、私の信頼できる飲み友達(飲み友達ということで、すでにあやしいのだが・・・)が語る。雑談を繰り返しているなかで、文学では、私のバックボーンとはなんだろうと、連想してみる。筒井康孝に、阿部公房に大江健三郎、あまりのめりこまなかった村上春樹などと感情を辿っていく。文学・・小説とのキイワードのためか、今は、ほとんど意識にでてこない名前が、浮かんでくる。浮かんでくるということは、やはりバックボーンらしき存在なのかと考えたりもする。亀田兄弟の試合をアルコールの薬味として時間をすごしていく。連休ならではの楽しいひと時だなと感じた。
 ふと、白樺派という言葉が連想された。武者小路実篤と連想は続く。なぜかこれだという感覚が沸いてきた。小学校から、高校にかけて、確かにどっぷりとはまっていた。ただ、新しき村には、興味はなく、馬鹿一や短編など、活字と確かに対話していた自分が思い起こされてきた。白樺派というとなにかの一派のようだが、私の中では、同環境にいた、仲間たちのサロン的な存在だったと、意識している。ただ、今となっても、武者小路実篤は、意識の表層には浮かび上がってこないが、苦労することなく、連想できるし必要なときに確実なものとして認識できる。それも明るく、希望にあふれた感覚としてなのだ。なぜか、そこには活字を通してだが、対話があったのだと。

 昨日(05/06)偶然によることになった中津市大分県)、3年前ぐらいまで、よく入り浸っていた、今はめづらしかもしれないJAZZ喫茶(GLOVY)へ顔をだした。なつかしさもあったが、音への欲求は強くなるばかりである。ひさしぶりにあったマスターもいやな顔せず、すこし対話らしきものをする。健在でなにより、ここは、年に数回、プロのライブを開催していた。今もしていると思うが聞き忘れた。レベル的には、プロであるからあたりまえだが高い。ライブが終わると、会費で、プレイヤーと飲み会がある。たいてい、地元のプレイヤーとセッションが行われる。約束事ではないが、かなり音的に高級な空間が演出されていたように思っている。ノスタルジーに浸った休日ではあったが、アルコールは控えようといつも思うばかりである。