年末の休暇

 年末の休暇は、癒しにならないと感じている。そんなことを、いい訳に、Netでリラックスを図る。ここにも、癒しにならない内容が7割近くはあるだろうことを、直感しているのだが。
 義務教育のとき、背伸びして、物理の本を、ムサボッタ記憶がある。最初に興味を持ったのは、相対性理論のアインシュタイン、次にハイゼンベルグと、分かっているような気になり、更に『本』を読んだ、主に講談社だったか、ブルーバックスが多かった。ある時期、物理から宗教へ、社会学から建築へと、興味は進んでいった。就職してからは、だんだんと、この嗜好はなくなっていき、3年前には、ほとんど『本』を読まず、Netや雑誌が主体になっていたように記憶している。
 振返ると、なにがそんな行為にかりたてたのか、やはり、確実なものへの思考がほしかったのだと、感じている。最近、妙な思考にとらわれることがある。『ワタシは生きているのか、死んでいるのか。』禅問答なのだが、これと同じ疑問を物理のなかで、体験したことがある。シュレーディンガーの猫のはなしである。思考体系には、言葉が必要で、言葉には、対応する認識が必要になる。ここが、実感と違った、センテンスを生み出す源なのだが、思考実験とも言われているこの手の話は、実に良くできているのだが、生きているということを、疑うのは、ダイアログの手法であって、実感を疑うことは、それこそ、自分が思考実験の材料になることであり、そんなに意味のあることでないと最近、割り切っている。