ササイなこと。

 数十年まえになるのか、クンタキンテという言葉がいつも思考の中に出てきたことがあった。ルーツというブームがあった時代背景があったのだが、私的には、どこからきてどこへ行くのかという自己啓発のスタートラインのように感じていたのだと、自己分析する。哲学みたいな、体系化は必要ない、ただどこから来たのかには興味がある。
 両親が居て、私があるというのは事実として認識する。その両親も今は亡くなっているのだが、私が居る。こんなことの繰り返しを確認したいという願望は持ってあたりまえだろう。その当たり前の欲求が人間としての差別化を図る。
 言葉とは、便利な道具である差別化する武器でもある。でも、最近の私はむしろ野生に帰りたいと願っている。その引鉄はアルコールと飲み友達にあり、気づいた自分の感情には、さびしさがあり、飲み友達がある。あるときには饒舌に、あるときには、凶暴に、あるときにはフェスタよろしく演じ手になる。不思議な世界である。そこに、永くいたいと感じているのは、やはりストレスなのかも知れない。

 自分に対してはいつも演じ手なのであるが、同格の存在については、閉じたり開いたりしている。私の中の野生とは、社会的な解放であり、演じ手になることなんだなぁと、意識が芽生える。